ん?
ここは一体どこだ。
やけに人が多いな。
そうか、ここはニホンというところか。
ニホンという世界は治安も良いと聞いている。
とりあえず身の危険はなさそうだ。
ここに来るのは初めてだ。
いろいろな世界に飛ばされてきたが、ここはどこか奇妙だ。
道行く人のほとんどが顔に白い布を当てている。
顔の鼻から下の部分をすべて覆っているのだ。
ほとんどは白だが、中にはピンク、黒、肌色、何かの絵柄が描かれているものもある。
老若男女関係なく着けているな。
ふむ、ここの風習なのであろうな。
しかし、中には口元を何も覆っていない素顔の人もいる。
顎にずらしていたり、腕に巻いている人もいた。
水を飲むときだけ、外している人もいた。
着けていない人がいるということはあの白い布は必須ではないのであろうな。
私が別の世界に飛ばされるときは、常にそこで必要な装備や服装が自動的に用意されている。
私が身につけていないということは、ここで生存するためには必要ではないということだ。
あの布はあくまでおしゃれのようなものかもしれない。
だが、私から見れば、おしゃれとはとても言いがたい。
まるで、団子状に丸くなるムシの脱皮した皮を、薄く広げて顔に貼り付けているようだ。
とても着けたいとは思わないな。
やはり素顔で歩いている人の方が美しく見える。
しかし、腹が減った。
前にいた世界は、ろくな食事が出来るような環境ではなかったからな。
早く食事が出来る店を探そう。
鞄の中をのぞく。
よし、この世界で使うことができる通貨は手元にある。
世界を移動させられる度に、必要最低限の通貨は自動的に鞄に入っているのだ。
ここに入ろう。
イザカヤと呼ばれる、酒や酒に合う食事を提供するお店だ。
中で楽しそうに飲み食いをしている人たちが見える。
ここでは、客のだれもあの白い布を着けていないな。
それもそうか、着けていたらだれも食事をとれないものな。
ということは、あれを着けていなくても入ることが出来るはずだ。
ニホンシュと呼ばれるお酒は非常においしいという話を、同じように世界を移動する仲間に聞いたことがある。
実に楽しみだ。
「いらっしゃいませー、あっ!お客様!」
店に入った瞬間、顔に白い布を着けている店員に呼び止められた。
様子がおかしい。
こちらに詰め寄ってきた。
手には、光線銃のようなモノを持っている。
にわかに緊張感が高まった。
「申し訳ありません。マスクはお持ちですか?!」
店員は自分の口元を指さしながら言っている。
マスク?ああ、あの顔の白い布のことをそう呼ぶのだろうか。
「マスク、というものは持っていないな。 何か問題でも。」
「お客様、申し訳ございませんがマスクの着用をお願いしております。マスクを着用しない場合は入店をお断りしております。」
ん?どういうことだ。
あの白い布はただのおしゃれではないのか。
この店特有の決まりなのだろうか。
だが、やはり客達はだれも着けていない。
「申し訳ない。どういうことか分からない。くわしく聞かせてくれ。」と店員に聞いた。
店員は苦虫を潰したような顔をした。
聞くと、こういうことらしい。
マスクを着けて入店をしないと他の客が不安に思うのだそうだ。
どうして不安に思うのだ。と聞くと、国の決まりでシンガタコロナと呼ばれる感染症への対策を徹底しているという。
ほう、シンガタコロナというのはなんなのだ。
そこまで人々を不安にさせるようなものなのだろうか。
お店の中で談笑をしている客達は、わっはははと、大きな口を開けながら、かなりの近距離で食事をしているではないか。
店員の言うように、そのシンガタコロナと呼ばれるもののための感染対策だというなら、あの者達は非常に危険な状態ではないのか。
そのことを店員に問うと、「間にアクリルバンがあるから大丈夫なんです。」と言う。
アクリルバンというのは、あの透明な平たい板のようなものらしい。
客の組ごとに仕切っている。
そういえば、その透明な板のことも気になっていた。
元からあったものではなく、いかにも後から取り付けられているように見える。
なんというか、雰囲気に全くそぐわないのだ。
ベタベタと客が触ったのだろうか、指紋汚れも目立つ。
清潔感がなく、圧迫感もあるので食事をする場所にふさわしいものとは思えない。
あのアクリルバンというもので、シンガタコロナという感染症は防げるのか?
過去に致死率50%の非常に危険な感染症が流行していた別の世界に飛ばされたことがあった。
そこでは常に防護服をまとい、ガスボンベを装備する必要があった。
無菌のシェルター以外では暮らしていけない世界だった。
シェルターの外で食事をとることなど自殺行為に等しい。
様々な世界を渡ってきたから分かるが、感染症というのは空気中に舞ったウイルスが口や鼻の粘膜に触れたりすることで感染するはずだ。
そうであれば、あのアクリルバンという透明な板に、客同士の感染を防ぐ効果は到底期待できない。
高さも幅も絶望的に足りず、まったく無意味だ。
空気感染を防ぐのであれば、一人一人完全に隙間なく覆うしかない。
それに、あの状態は知り合い同士であれば感染をしても良いということなのか?
国の決まりということは、よっぽど恐ろしい感染症のはずだ。
組ごとに感染を防ぐだけで良いのだろうか。
この世界の人は常にグループごとに生活をしているとは聞いたことがなかった。
そもそも、なぜ私はマスクというものを持っていない。
生存に必要な装備は世界を飛ばされる度に自動的に備えてあるはずだ。
世界を渡り歩く存在だからといって、特別に免疫が人より優れているわけではない。
なぜ、客達は平気で食事をとっていられるのだろうか。
食事をしているとき以外は、マスクの着用をお願いしますとのこと。
……。
考えれば考えるほど理屈に合わず、わけが分からない。
ここで店員にシンガタコロナという感染症について詳しく聞こうと思ったが、忙しくてそれどころではなさそうだった。
仕方ない。
あの光線銃のようなモノで蒸発させられてはかなわない。
いったん店を出ることにした。
あの布はこの世界のただのおしゃれなのかと思っていたのだが、違うのかも知れない。
生存を脅かすほどではないが、感染をするとやっかいな症状を起こしてしまうものなのかもしれない。
念のためだ、マスクというものを入手しておこう。
コンビニと呼ばれる場所に立ち寄る。
コンビニでは、イザカヤと違って店の中で呼び止められることはなかった。
食事をする場所限定の決まりなのかもしれないな。
早速着けてみる。
ううむ、匂いがひどいな。
鼻まで覆うと息がやや苦しい。
苦しくはあるが、鼻の隙間や横から吐き出した空気がたっぷりと漏れている。
漏れ出た空気が顔に当たって抜けていくことを感じる。
ピタッと肌が覆われる類いのモノではない。
とてもこの布で空気中に舞うウイルスの曝露を防げるとは思えない。
こんなもので、もしあの致死率50%のウイルスがはびこる世界にいたら、ひとたまりもないだろう。
もしや、シンガタコロナというのは一種の宗教的な思想なのだろうか。
であれば、白い布を顔に着けていないというだけで、あれほど差別的な扱いを受けたことにも説明が付く。
たまたまこの地域がそうであるという可能性もある。
ある世界では、肌の色が異なるというだけで入店を断られるということもあるくらいだ。
とりあえず、このニホンという世界について、もっと情報が必要だ。
まず、シンガタコロナというのは一体何なのか。
マスクの存在意義とは。
着けている人と着けていない人の違いはなんなのか。
調べていく内に、シンガタコロナと呼ばれる思想の正体、そしてニホンという世界の驚愕の事実を知ることになる。
つづ、、、、